永遠の時間を与えられた社会

地デジ化して早5年。デジタルカメラが普及してはや20年。

世の中の情報は、色褪せず世に蔓延り始めた。例えば、2011年のテレビ映像は、再放送されても画質は衰えず、昨日の映像だと言ってみても遜色無い。10年前デジカメで撮った写真はさすがに画素数が少なくて時代を感じるけれど、恐らく10年後のデジカメと今のデジカメは画素数という点で、性能に大きな差は無いだろう。その意味では、"写真"や"動画"は今後永遠に鮮やかさを保って情報の海を漂い続けるに違いない。

 

ホームページの世界もそうだ。HTMLの発達によって描写の綺麗さ、表現の豊かさは大きく進歩した。その意味では1992年の最古のホームページと比較すると時代の変化を感じる。しかし、情報という観点からすると、20年以上前の記事に検索エンジンを使って気軽にアクセスできる環境は、人々が望んでも手に入らなかった「永遠の時間」に近い異常性を感じてしまう。

 

この「永遠の時間」は僕たちの社会にどのように影響するだろうか?

 

ノスタルジック。「郷愁」という概念は近年薄れつつある。ふるさとに想いを馳せる気持ちは自分の過去を時間的、空間的に隔離し、いまを生きる原動力となっていたはずだ。しかし、移動手段や通信手段の発達によって、隔絶された都市と田舎という二元論は今や昔、毎日両親との会話を楽しんだり、月に一度は実家に帰るなど、多様なライフスタイルが技術的な許容を受けることになった。そしてSNSや、鮮度の落ちない写真たちは、すぐそこに待っているかのようなリアリティを持っていつでも簡単に過去の自分へアクセスすることを容易にした。

 

僕たちは生まれてから小学生・中学生・高校生・大人へと、ステージが変わるごとに空間・場所を隔ててきた。そしてそれを架橋する際に、いつもそのステージに応じた振る舞いを身につけ、過去と訣別することで社会的なたくましさを身につけてきた。しかし、インターネットにアクセスすることで、人は今まで過ごしたステージでの人間関係を、非常に少ない労力で維持することを可能にする。この人のつながりは豊かさも生むことになるが、年月が経っても切り離せない社会性を同時に引きずり続けることになる。

僕は過去が鮮やかに現れ続ける限り、自分自身が未来でどうありたいかを継続的に自問する姿勢が求められるべきだと思う。インターネット勃興前の人生の一歩一歩が戦々恐々とした緊張感ではなく、いつでも友達にメールをして、SNSでつながるような庇護感が世に蔓延することで、個人の人生の選択肢は広がり続ける一方、「みんなが結婚したから結婚しよう」「転職する人が多いから転職」と自分の考えが無くてもなんとなくそれっぽい道筋が合って、なんとなくそれに乗っかる、いわば考えの足りない人も同時に増加する。

自分の本当にやりたかったことは、そんな「永遠の時間を与えられた過去」に惑わされずに持ち続け、未来を創り続ける姿勢を貫くことを更に強く求められている社会に変化したように感じる。